2014年7月アーカイブ

pedagogy

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視話法で知られている伊沢修二もみておこうと思い、本棚を探してみた。

これもまた日本聾史学会個人研究論文集に掲載されている「わが国の口話法の歴史」(野呂一)、「聴覚障害教師の嚆矢 吉川金造先生」(豊橋聾学校創立百周年記念事業実行委員会)、「ベル来日講演録」(近畿聾史研究グループ)などで取りあげられている。

523日のブログで取りあげましたが、京都盲啞院が視話法に適する生徒を選んで一学級を編成したときの担任福田与志も忘れてはいけませんね。

以下、整理してみる。

明治91876)年に開催されたアメリカ独立100周年記念博覧会で、唖者に発音を教えるための文字、視話法の要である発音文字を知り、ベルを訪ねています。

なお、派遣留学は明治81875)年から111878)年。

明治21869)年にアメリカ合衆国長老教会の宣教師から英語を学んでいたこと、工部省出仕として山尾庸三の下にいたということもわかったので、Unitariansと関係があった可能性は高くなりました。

帰国して、明治191886)年に訓盲啞院の唖生に視話法を試みたとある。

この唖生が、吉川金造で、我が国で最初のきこえない教員となっています。

Wikipediaによると、明治211888)年に東京盲啞学校の校長になったとあるが、へえ。

明治201887)年から301897)年にかけて、明治231890)年に東京盲啞学校の校長になる小西信八と吉川金造が聾唖教育の啓発と普及のために全国をまわり、視話法を紹介しているが、伊沢修二も一役買ったに違いない。

ところで、福田与志は明治301897)年に視話法を試用され効果をあげたことがあると資料にあるのですね。

これは、617日から819日まで京都盲啞院において行われた盲啞教育視察研修期間のことか。

つまり、福田与志は京都盲啞院で視話法を知り、実践してみたということになるのかな。

明治311898)年にベルが来日、1112日に東京盲啞学校、1121日に京都市盲啞院で講演、伊沢修二が通訳をつとめている。

明治341901)年に「視話法」を発刊、安田敏朗の「日本語学は科学か」によれば、同年の「国語科教授用発音教授法」(高橋龍雄)は伊沢修二の視話法を参考に記述したとある。また、佐久間鼎は伊沢修二の国定読本の読み方について著述、批判しているということです。

ははあ。

これで少しずつわかりかけてきた。

視話法と口話法は違う。

おそらく、伊沢修二・小西信八の視話法、佐久間鼎・川本宇之介の口話法というように説明することができると考えられる。


ありがとうございます。

上田萬年、前島密、伊沢修二の3人が明治311898)年にあったベルの講演会という場に居合わせたのは偶然でなく、国語という観点から考えられないものかと書いてきたわけですが、明治がどんな時代だったのかをつとめて知らなければいけないと思っています。

というのは、526日のブログにもあるように、当時のクリスチャンのネットワークがうかがえるだけでなく、相当なものであったろうとも考えられるからだ。

そこで、「フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした」(副島隆彦)は参考になる。

明治時代の新しい日本を創った指導者たちで、後に「偉人」とされた人々に光をあてており、明治41871)年9月に「盲啞学校ヲ創立セラレンコトヲ乞フノ書」を太政官に提出したことで知られる山尾庸三もその一人です。

ふむ。

このユニテリアン、Unitariansというプロテスタントの一派が、当時の世界規模の最先端での政治思想であったということなので、上田萬年、前島密、伊沢修二も何らかの関係があったのかなあ。

当然ベルも。

そのところをググってみたけど、ちょっといまのところはわからない。

気になったので、日本聾話学校の方もみてみた。

こちらは米国長老派教会か。

Presbyterianismだから間違いない。

プロテスタントで、長老派というのはスコットランド・カルヴァン派、思想系譜でいうとカルヴァン派。

ややこしいなあ。

キリスト教の教義学の考え方を強く中心にするとか。

宗教という切り口からもみていかないといけませんね。


ありがとうございます。

ビワイチ

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そうそう。

まだある。

524日のブログに出てくる小学2年生なんですが、いまは元素を覚えるのに挑戦しています。

自分からやると言っただけあって、覚えるのが楽しいみたいで。

覚え方も独特とあり、こどもの可能性は無限だ。

さて、小学1年生はどう出てくるのか。

この夏休みでどう成長するか、楽しみです。

今年も高校受験生がいるのだけど、基本の徹底を中心にしてきたこともあって、ここにきて安定、安心してみていられます。

志望校まっしぐら!!

 

あ、この夏休みは、チャリで琵琶湖一周するぞ〜。

初めての経験だけにわからないことばかりですが、周到な準備をして臨みたいと思っていますので、ご声援をよろしくお願いいたします。


ありがとうございます。

考へる力

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524日のブログで、小学5年生と4年生が百人一首に取り組んでおり、読み方に変化がみられることを書いた。

それは、身体と言葉がひとつになるというような感じです。

その後の変化もみるにつけて、言葉遊びができるようになっただけでなく、レディネスの到達度をはかる参考になる。

当然「話す」だけではだめなので、あわせて「書く」ことも課しているが、このことによって、自分は話せていると思っても、「書く」ことで、自分は「話す」ことができていないことを自覚できたのは大きい。

それだけでなく、自分で読み方を工夫するようになり、どうしたらスムーズに頭に入るかを考えるようになった。

本人は気付いていないと思うが、これから日本語を学んでいくうえで重要なことを知らず知らずのうちに身につけている。

これを手掛かりにして、国語の指導を検討していくわけだが、やはり、身体を取り戻さないことには始まらないのだ。


ありがとうございます。

月刊言語20038月号の特集はバイリンガリズムとしての手話で、「手話による国語教育法の実際」(野呂一)が掲載されている。

副題は戦前の私立浜松聾唖学校にみるバイリンガリズムで、手話教育を実践した私立浜松聾唖学校をとりあげ、その教育方法を紹介しています。

大正121923)年41日に開校、官立東京聾唖学校高等科の同級生3名、一学年下の1名、あわせて4名が戦時中、教職に当たっていたとある。

そして、手話化した助詞を用いたとあり、「は」「が」「の」「に」「へ」「を」「で」「も」「と」「ます」「です」「ました」をどのように教えていたのかが少しわかります。

ここのところを読み、やはりというか、「国語」の影響を受けていることがうかがえた。

複雑になった現代の「国語」と違い、当時はまだ複雑ではなかったと思われるだけに、書き言葉を教えることは容易であっただろうなあ。

今日の「国語」は、きこえないこどもにとって、それだけ乗り越えなければならないハードルは高い。

生徒が日記に書いた内容を自ら手話で語ることで、教師は書き言葉の習得度をチェックしていたということからして、おそらくであるが、国語、日本語を教えるからには、論理というか、文法を意識しないわけにはいかないことからみても、この手話は、まだ論理、文法を内包したものであったということがわかる。

翻って、今日のきこえないこどもは、「聞く」「話す」「読む」「書く」において、論理、文法を意識しているのがどれだけいるのであろう。

聴覚障害児教育の進歩(?)によって、「話す」ことは上手になったかも知れないが、ただ「話す」だけという感じで、言葉を垂れ流しているだけというのがほとんどではないか。

自分の「話す」を引き受けない、責任を持とうとしない、きこえない大人、こどもの多いこと。

こういうところから、きこえない人はうそをつくとみなされることもよくある。

これまでの経験から、職場で「書く」ことが求められるきこえない大人ほど、しっかりしている印象をよくうける。

だって、そうだろ。

(垂れ流しになっている)言葉を「聞く」だけでは、きちんと「話す」ことなどできるわけがないのだから。

話を戻してと。

この国語教育法は、先述の4名が東京聾唖学校に在学していた時に習得したもので、ろう者の筆談を奨励する三浦浩というろう者教師がおり、彼を中心として筆談の指導法が伝授されていたということです。

東京聾唖学校についてもみていくとするか。


ありがとうございます。

八光会

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623日のブログで、大正151926)年に設立された音声学協会(現在は日本音声学会)の役員に名古屋市立聾唖学校の橋村徳一の名前があったことを紹介した。

ということで、日本聾史学会個人研究論文集に掲載されている「純口話主義の名古屋聾学校橋村徳一先生の素顔」を読んでみる。

こちらには、ラジオ放送のことが書かれています。

名古屋放送局において、大正151926)年212日の午後630分から7時まで、橋村校長は、「聾唖の教育」と題して、聾教育の一般から口話法の概要を説かれたとある。また、聾部初等部4学年加藤儀一さんを招いて、会話の出演をされたとの記録があったということです。

ラジオ放送についてググってみた。

我が国で最初のラジオ放送が行われたのは大正141925)年322930分で、社団法人東京放送(現在のNHKラジオ第1放送東京)となっている。

他、61日に社団法人大阪放送局(現在のNHK大阪放送局)、715日に社団法人名古屋放送局(現在のNHK名古屋放送局)でも放送を開始、社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の大正151926)年に「社団法人日本放送協会」として統合され、実質的に政府機関的な性格を持っていたとあります。

つまり、名古屋放送局が放送を開始してから半年後には実現していることになるわけか。

放送開始半年で10万、1年で20万を突破したということなので、テレビ同様、ラジオが広く国民に認知されつつあったわけで、それに目をつけたということですね。

政府機関的な性格を持っていたということからみるに、こちらも川本宇之介が一枚かんでいたのかもなあ。

このラジオといい、テレビといい、それはメディア、当時としては最先端機器(技術)に目をつけたのは、当時の進歩人、知識人として当然のことだったのかも知れない。

この時点で、人脈、思想、教育方法論、技術などにおいて、きこえない側のそれとはもうかなりの開きがあったこともわかろうものだ。

それだけでなく、無意識のうちに、主体と対象の関係が強化されたのである。

きこえない側は、対象という位置にいる、「聴覚障害者」といった対象のラベルを貼られていることに自覚的であれ。


ありがとうございます。

鏡像

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「五〇年のあゆみ」とあわせて、「可能性に挑んだ聴覚障害者」(みみより会)も読んでおり、こちらの副題はろう者・難聴者50年のあゆみで、前者と違った視点からみえてくることもあります。

2013427日のブログで九谷焼作家の三ツ井為吉氏とお会いしたことを書きましたが、この三ツ井為吉氏も寄稿しているのですね。

昔の聾学校、きこえない大学生の様子もわかるだけでなく、日本聾話学校、川本宇之介も出てきます。

年表によると、例会の会場を日本聾話学校の好意で固定、日本聾話学校の卒業生、在校生が多数入会とある。

また、昭和301955)年に開催された第一回合宿に元教育大学附属ろう学校長川本宇之介が参加したとなっており、どんな内容だったのか気になりますね。

歴史は人が作っているのだとつくづく思う。

平成91997)年に全日本ろう学生懇談会を発足させ、昭和611986)年に発足した全日本聴覚障害懇談会連合の最後を見届けた一人として、当時の様子を少しでも後世に伝えておかねば。

思えば、全日本聴覚障害懇談会連合は約12年と短命であった。

全日本ろう学生懇談会は全日本聴覚障害懇談会連合より長生きし、18年になろうとしている。

当時は主体性を問うたのであるが、いまではどうだろう。

聴覚障害児教育における「国語」観は、そっくりそのままきこえない人の生(人生)、目の前、頭の中に立ち現れる世界を構成しており、それだけでなく、いわゆるきこえない世界、ろう運動に直結していることは明らかで、この「国語」観を脱しない限りは、ずっと対象であり続けるのだ。


ありがとうございます。

propaganda

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612日のブログで取りあげた「テレビろう学校」についてです。

Wikipediaによれば、昭和361961)年415日から昭和561981)年43日にNHK教育テレビで放送されていたとあるが、「五〇年のあゆみ」(財団法人 全日本ろうあ連盟)の年表では、昭和351960)年721日から89日まで14回、土・日を除く毎朝105分から25分間放送となっている。

日本ろう話学校校長大島功、同校幼稚部主事松沢豪が出演したこともわかった。

つまり、歴代の講師はこういう感じか。

 

日本ろう話学校校長大島功、同校幼稚部主事松沢豪

松沢豪、椚乙女子(当時の肩書きがわからない)

東京教育大学付属ろう学校教諭松崎節女、東京教育大学付属ろう学校教諭大塚昭敏

 

「テレビろう学校」は昭和501975)年の発行で、担当者が昭和361961)年4月に始まりましたと書いてあるので、こちらが正しいんかなあ。

毎週一回、30分の定時番組、ひとつのテーマで年間50回あまり放送されているともあるので、この頃には充実してきたということにもなりますね。

613日のブログにも書いたけれど、昭和251950)年に進駐軍のはからいでアメリカ聴覚障害児教育の実状視察のために渡米した、東京教育大学付属ろう学校と日本聾話学校が、戦後のろう教育、聴覚障害児教育において、どれほどの影響力を持っていたのかがわかる。

気になったので、テレビ放送についてググってみた。

昭和281953)年21日に日本放送協会(NHK)がテレビの本放送を開始している。

だが、「テレビろう学校」は昭和341959)年110日に我が国で初めて教育放送を専門に扱ったNHK教育テレビジョンの番組である可能性が高い。

川本宇之介が亡くなった昭和351960)年の翌年に放送が始まったことからみて、番組の準備も考えると、その構想は前々からあって、川本宇之介らが手をまわしていた可能性もなきにあらず。

ちなみに、昭和341959)年は皇太子ご成婚の年で、白黒受像機の普及が200万台を超え、テレビが広く国民に認知されたということなので、それに目をつけたとしてもおかしくはない。


ありがとうございます。