視話法で知られている伊沢修二もみておこうと思い、本棚を探してみた。
これもまた日本聾史学会個人研究論文集に掲載されている「わが国の口話法の歴史」(野呂一)、「聴覚障害教師の嚆矢 吉川金造先生」(豊橋聾学校創立百周年記念事業実行委員会)、「ベル来日講演録」(近畿聾史研究グループ)などで取りあげられている。
5月23日のブログで取りあげましたが、京都盲啞院が視話法に適する生徒を選んで一学級を編成したときの担任福田与志も忘れてはいけませんね。
以下、整理してみる。
明治9(1876)年に開催されたアメリカ独立100周年記念博覧会で、唖者に発音を教えるための文字、視話法の要である発音文字を知り、ベルを訪ねています。
なお、派遣留学は明治8(1875)年から11(1878)年。
明治2(1869)年にアメリカ合衆国長老教会の宣教師から英語を学んでいたこと、工部省出仕として山尾庸三の下にいたということもわかったので、Unitariansと関係があった可能性は高くなりました。
帰国して、明治19(1886)年に訓盲啞院の唖生に視話法を試みたとある。
この唖生が、吉川金造で、我が国で最初のきこえない教員となっています。
Wikipediaによると、明治21(1888)年に東京盲啞学校の校長になったとあるが、へえ。
明治20(1887)年から30(1897)年にかけて、明治23(1890)年に東京盲啞学校の校長になる小西信八と吉川金造が聾唖教育の啓発と普及のために全国をまわり、視話法を紹介しているが、伊沢修二も一役買ったに違いない。
ところで、福田与志は明治30(1897)年に視話法を試用され効果をあげたことがあると資料にあるのですね。
これは、6月17日から8月19日まで京都盲啞院において行われた盲啞教育視察研修期間のことか。
つまり、福田与志は京都盲啞院で視話法を知り、実践してみたということになるのかな。
明治31(1898)年にベルが来日、11月12日に東京盲啞学校、11月21日に京都市盲啞院で講演、伊沢修二が通訳をつとめている。
明治34(1901)年に「視話法」を発刊、安田敏朗の「日本語学は科学か」によれば、同年の「国語科教授用発音教授法」(高橋龍雄)は伊沢修二の視話法を参考に記述したとある。また、佐久間鼎は伊沢修二の国定読本の読み方について著述、批判しているということです。
ははあ。
これで少しずつわかりかけてきた。
視話法と口話法は違う。
おそらく、伊沢修二・小西信八の視話法、佐久間鼎・川本宇之介の口話法というように説明することができると考えられる。
ありがとうございます。